中日韓3カ國を結(jié)ぶ寺の再建を巡って

張燕波    2025年4月16日(水) 8時(shí)30分

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およそ30年前の春、當(dāng)時(shí)高校生の筆者は修學(xué)旅行で中國山東省威海市石島鎮(zhèn)にある法華院を訪れたことがある。「山東省は儒教の発祥地であり、なぜここに仏教のお寺があるの」と不思議に思っていた。

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およそ30年前の春、當(dāng)時(shí)高校生の筆者は修學(xué)旅行で中國山東省威海市石島鎮(zhèn)にある法華院を訪れたことがある?!干綎|省は儒教の発祥地であり、なぜここに仏教のお寺があるの」と不思議に思っていた。

その他の寫真

數(shù)年後、筆者は留學(xué)先の日本の図書館で「円仁」という本に出會った。その本に出身地の「文登」という地名が出てきたので、好奇心で本を読んだ。本によれば、日本の天臺宗第3代座主円仁大師は遣唐使船で中國へ仏法を求めるために、赤山にある法華院に身を寄せた時(shí)間は前後合わせて2年9カ月にも及ぶそうだ。赤山法華院は元々朝鮮人の張保皋が建てたお寺であり、1000年以上前に唐の武宗の「廃仏毀釈」で破壊されていた?,F(xiàn)在の赤山法華院は1980年代に元の場所に再建された建築である。本文は赤山法華院の再建について、簡単に紹介する。

1000年以上前の遺跡を見つけることは決して容易なことではなかった。

戦時(shí)の1923年に日本の學(xué)者の大宮権平氏と松本穆堂(松平穆堂の可能性が高い)氏が山東省で円仁大師當(dāng)時(shí)のルートに沿って何度も赤山法華院の遺跡を探したが見つからなかった。仕方がなく、中國?青島の市街で「慈覚大師山東遍路図碑」を建て、円仁大師入唐求法の壯挙を記念する。

1972年、中國と日本が國交を結(jié)んだ後、日本から「赤山法華院遺跡」について問い合わせの手紙が文登県政府に屆いた(1000年以上前は赤山浦は文登県に管轄されていた)。文登県政府はその手紙を栄成県政府(赤山の今の管轄県)に転送したが、その手紙を受け取った人およびその周りの人たちはこれらの歴史を知らなかったため、そのまま放置された。また、1978年に赤山法華院遺跡を探すために威海市石島鎮(zhèn)にやって來る日本人學(xué)者がいた。學(xué)者は石島鎮(zhèn)で「赤山浦」という所を探していた。しかし、唐代では「赤山浦」という地名が今は「石島灣」へ改名したことをその學(xué)者は知らなかった。加えて、學(xué)者の持っていた資料は日本語で書かれていたため、言葉が通じないことが原因で地元の人々の助けをもらえなかった。學(xué)者は海岸に沿って西から東へ遍歴し何カ所も考察したが、失望して帰國した。


1981年12月に北京大學(xué)の宿白教授は山東省で行われたあるシンポジウムで日本の円仁大師および赤山法華院について言及し、歴史學(xué)者らはこれらの歴史を重視すべきだと指摘した。後に、山東大學(xué)の宋柏川教授は資料などを持參し石島鎮(zhèn)へ考察に來た。しかし、地元のガイドは教授を違う場所の石島鎮(zhèn)西山馬王廟あたりまで案內(nèi)し、結(jié)果的に教授も失望して帰った。

1980年代初め、「県史」を編さんするために栄成県県史編さん事務(wù)室の呉徳永氏は北京図書館に行き、円仁大師の「入唐求法巡禮行記」をコピーした。赤山法華院遺跡考察事務(wù)室の田正祥氏は赤山法華院遺跡は歴史的価値が大きいと認(rèn)識し、呉徳永氏と「共同研究」を決めた。両氏は円仁大師の「行記」に基づき、さまざまな研究?調(diào)査をしたが、価値のある発見はなかった。


1987年夏、日本から「泰山と山東半島の旅」という考察団が石島鎮(zhèn)にやって來る。目的は赤山法華院遺跡を見ることである。しかし、法華院遺跡はいまだに見つからず、考察団一行に見せるものはない。それでも、日本側(cè)は「必ず石島鎮(zhèn)へ見に行きたい」と堅(jiān)持し、地元(栄成県)政府は「法華院遺跡を探す」プロジェクトを立ち上げ、副県長がプロジェクトリーダーとして全力を挙げて法華院遺跡を探そうとした。

前述の田正祥氏、呉徳永氏のほか、劉湖清氏、王洪釗氏らもプロジェクトチームに加えられ、円仁大師の「行記」に基づいて地元で聞き取り調(diào)査をしながら法華院遺跡を探した。プロジェクトチームが立ち上がって1カ月以上もたったある日、地元のお年寄りの王昭均氏は1944年に家を建てる時(shí)、地下から大量の瓦の破片が出てきたという情報(bào)を提供した。プロジェクトチームは王昭均氏の自宅に駆け込み、王氏の自宅よりやや高い所から周囲を見ると、「行記」に書かれた地理と完全に一致していることに驚いた。また、保存されている瓦の破片を考古學(xué)者に鑑定させ、國內(nèi)外の考古學(xué)者は共にこれは唐代のものだと指摘した。これで赤山法華院遺跡は円仁大師の「行記」のおかげと地元政府の努力で、やっと見つかった。時(shí)は1987年6月15日だ。


1987年7月20日、日本から「泰山と山東半島の旅」考察団が石島鎮(zhèn)にやって來た。団長は奈良女子大學(xué)の千田稔教授であり、団員には京都大學(xué)の牧田諦亮教授や「朝日新聞」の高橋徹氏らがいた。いずれも歴史に詳しい専門家である。氏らは「法華院遺跡」と言われている所を「行記」を確認(rèn)しながら慎重に考察していた。途中、いくつかの疑問もあったが、(栄成県の)プロジェクトチームの関係者らと意見を交流?交換しながら疑問を解いていった??疾靽庖恍肖稳毡編?、円仁大師ゆかりのお寺の赤山法華院遺跡が中國?石島鎮(zhèn)で発見されたという報(bào)道は「朝日新聞」の1988年10月18日と同月20日、11月29日の朝刊に掲載されている。


1988年7月1日、山東省威海市栄成県政府は「赤山法華院再建委員會」を成立させ、法華院再建を決めた。赤山法華院遺跡の発見は隣國韓國の専門家の興味?関心をも集めている。その後、赤山法華院、円仁大師、張保皋などを巡って中日韓3カ國の専門家らは何回かシンポジウムを行った。赤山法華院は1000年を超えて今でも中日韓3カ國を結(jié)ぶ紐帯となっている。

參考文獻(xiàn):張峽「石島?張保皋輿中韓友好関係史」 山東電子音像出版社 2002年3月

■筆者プロフィール:張燕波

中國山東省威海市出身。1998年に技能実習(xí)生として初めて日本へ。2000年から日本留學(xué)。06~12年にイオン九州に勤務(wù)。13~20年に神戸大學(xué)大學(xué)院修士課程、博士課程で日本の古典文學(xué)を研究。21年に帰國し、現(xiàn)在は山東省青島市の私立高校で日本語教師を務(wù)める。

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