中國のナショナリズムは日本や韓國、歐米よりもひどいのか?―中國紙

Record China    2014年12月2日(火) 18時(shí)55分

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11月30日、ある時(shí)期より、西側(cè)諸國では「ナショナリズム」という言葉で中國を語ることが多いが、なぜこのように言うのか理解に苦しむ。資料寫真。

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2014年11月30日、ある時(shí)期より、西側(cè)諸國では「ナショナリズム」という言葉で中國を語ることが多いが、なぜこのように言うのか理解に苦しむ。中國にも西側(cè)をまねてこうした言い方をする人が少數(shù)ながらおり、問題をさらにわかりにくくさせている。環(huán)球時(shí)報(bào)が社説として報(bào)じた。

その他の寫真

ナショナリズムは政治用語だ。政治用語の多くは意味が歴史の中で変化を続け、國や力が違えば、同じ言葉でも同じように使用するとは限らない。全體としていえることは、世界を見渡してもナショナリズムという現(xiàn)代の概念は相當(dāng)曖昧なものであり、愛國主義との境界がはっきりしないが、愛國主義は通常はプラスの言葉、ナショナリズムは通常はマイナスの言葉とされるということだ。

ナショナリズムという概念には歴史的過程と関わりがある學(xué)術(shù)的な解釈がある。だが現(xiàn)在の中國や海外の討論の場で使用される場合は、正常な愛國主義を超えてしまった感情で、愛國主義よりも激しく、攻撃的なものとされることが多い。この言葉の內(nèi)容の明確さは、マイナスの意味合いほど突出したものではない。実際、世界や地域と競爭する社會(huì)に積極的に參與する場合は、多かれ少なかれナショナリズム的な気分になるものであり、またこうした気分をもつ人たちもいる。中國は自國にはナショナリズムはまったくないと言うことはできない。問題は中國がナショナリズムだといってしょっちゅう批判する國で、ナショナリズムから完全に自由な國があるだろうかということだ。

西側(cè)世論でナショナリズムを語る時(shí)は中國を指していることが多い。西側(cè)の一部の人々は、ナショナリズムというのは中國のイデオロギーの中で共産主義よりも実質(zhì)的な中味をともなった概念であるとの見方を示し、彼らがナショナリズムを語る時(shí)にはナショナリズムの意味を再生し、ほとんど形容詞のように使用して中國と関連づけている。こうして、中國はナショナリズムの汚名を背負(fù)わなくてはならなくなった。中國がどのような動(dòng)きをしても、常にナショナリズムのレッテルが貼られる。

是非を考えれば、はっきりする。中國と周辺國との交流の多さを他國と比較すると、特に領(lǐng)土問題を抱えた國々と比較すると、誰のナショナリズムが最も強(qiáng)烈なのかが見えてくる。

日本の政府高官と議員が靖國神社を恒常的に參拝し、激しい感情や対抗の姿勢を示すことにより、日本の高官達(dá)は中國社會(huì)の言論を刺激し、これらの言動(dòng)はたびたび日中の衝突の導(dǎo)火線となってきた。このような中國でほとんど見られない動(dòng)きはナショナリズムといえないのだろうか。

中國の反日デモは外部ではナショナリズムの重要なあらわれとされているが、ここ數(shù)年のデモはあまり激しくなくなっただけでなく、デモ自體も減っている。ベトナムで數(shù)カ月前に行われた反中デモは暴徒化したとまで言われながら、ベトナムがナショナリズムとされることはなく、実に不思議だ。

中國はアジアで最も開放された市場であり、中國社會(huì)は基本的に民族的精神と外國製品に対する態(tài)度とを関連づけることはない。韓國と日本の社會(huì)は経済では自國保護(hù)の意識が目立つ。中國はグローバル化の積極的な參與者であり推進(jìn)者だ。中國人は違いを尊重し、自國の要素やシンボルをなんとしてでも輸出しようとはしない。中國はさまざまな文明に対して謙虛にへりくだり、歐米社會(huì)のように強(qiáng)い優(yōu)越感をもち、西側(cè)の文明が世界を主導(dǎo)することをしっかりと堅(jiān)持することはしない。

中國の臺(tái)頭が西側(cè)諸國をあわてさせており、世界的局面におけるこのような変化に適応できないのは一種の典型的なナショナリズムだ。こうした気分は米國の対外政策にますます浸透するようになる時(shí)、世界の不安定さの中には、あまり公開されていないが、確実に存在する新たな原因がある。

いろいろなところで武力を行使してきたいくつかの國々が、20數(shù)年にわたって戦爭することなく、周辺小國との摩擦の中で慎み深く慎重な態(tài)度を取る中國のナショナリズムを非難する。このようなデタラメな論理が西側(cè)の主導(dǎo)する世論で輝きを放ち、また批判精神に満ちた西側(cè)メディアは「知らぬが仏」を決め込んでいることは、本來あるべき姿ではない。

強(qiáng)調(diào)したいのは、中國社會(huì)にはナショナリズムの感情がないわけではないということだ。これほどの大きさの社會(huì)で、あらゆることに注目する事例が存在する。だがナショナリズムが中國に與える実際の影響は限定的で、平和的発展が中國社會(huì)の普遍的な願(yuàn)いであるだけでなく、ほとんど一種の信仰となっている。中國人はウィンウィンを信じており、ゼロサム主義は多くの人が狂信的で成功するはずのないものとみなしている。

ナショナリズムは全體として時(shí)代遅れの概念とみなされるべきだ。ナショナリズムをめぐって論爭を続けるのはつまらないことだ。グローバル化の時(shí)代にあって、ナショナリズムにはたくさんの天敵がおり、支離滅裂だといえる。ナショナリズムがウィンドウに飾られた服のようなものだとすれば、サイズがそろわず、品物がないことはしょっちゅうだ。ナショナリズムを誇大化するようなことはしてはならない。(提供/人民網(wǎng)日本語版?翻訳/KS?編集/武藤)

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