如月隼人 2017年4月21日(金) 1時0分
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前回のコラムでは、外交などにおける中國人の発想として「主敵を絞り込み」、「主敵以外との対決は避ける」傾向が強いと書いた。もう少し説明してみたい。資料寫真。
前回のコラムでは、「安倍內(nèi)閣がヒトラー『わが闘爭』の教材使用を容認(rèn)」の話題に絡(luò)めて、外交などにおける中國人の発想として「主敵を絞り込み」、「主敵以外との対決は避ける」傾向が強いと書いた。以前から考えていることなので、もう少し説明してみたい。
まず「主敵の絞り込み」だが、典型的事例のひとつが國共內(nèi)戦時の共産黨の方策だ?!钢鲾场工?a target='_blank' href='http://www.wenhuatang.com/search.php?filter=蔣介石'>蔣介石率いる國民黨だった。そこで共産黨は、國民黨以外の政黨、さらには國民黨內(nèi)部の反蔣介石勢力も取り込み「統(tǒng)一戦線」を組織した。中國では現(xiàn)在も、國民黨の反蔣介石勢力を源流とする「中國國民黨革命委員會」が政黨活動を認(rèn)められている(共産黨に対する反対は不可)。
さらに中華人民共和國成立前後に実施された「土地改革」では、地主階級を財産剝奪などの対象である「打倒すべき敵」としたが、土地を小作人に賃貸していても、家族が農(nóng)作業(yè)や雇われるなどして労働をしている農(nóng)家の場合には「富農(nóng)」に分類され一定程度の扱いの區(qū)別が設(shè)けられた。個々の小作人にとって地主であることに変わりはなかったのだが、當(dāng)初「打倒」の対象にしなかったのは、「主敵」を減らし全體としての抵抗力を削ぐことで支持基盤である雇農(nóng)(小作人)や貧農(nóng)への土地の分配を円滑に行うための方策だった。
「主敵」の絞り込みは、対日外交にも見られる。1972年の日中國交回復(fù)に向けての動きだ。日本では1960年代末ごろから日中國交回復(fù)を求める聲が高まった。中國ではそれ以前から、米國追従型の外交を堅持する日本政府を厳しく非難する一方で、日本人民とは友好関係を築けるとのメッセージを送り続けていた。つまり、「主敵」を當(dāng)時の佐藤栄作政権とその周辺に絞り込んだ。
日本で國交正常化を求める聲が高まった背景には、中國のイメージが極端に美化されていたことがある。実際には権力闘爭による混亂や暴力事件に満ちた文化大革命が進(jìn)行中だったが、日本には実態(tài)がほとんど伝えられていなかった。日本には一方で、國民黨による獨裁が続いていた中華民國(臺灣)の體制に違和感や嫌悪感を持つ人も多かった。
佐藤首相は政権末期になり中國との國交正?;艘庥蚴兢工瑜Δ摔胜盲郡?、中國は相手にしなかった。日本では世論に押される形で、次期首相を目指す政治家がいずれも自らが政権を擔(dān)當(dāng)したら中國との國交回復(fù)を?qū)g現(xiàn)させると言わざるをえなくなった。中國にとっては交渉をより有利に進(jìn)められる下地ができた?!钢鲾场工谓gり込みが成果を上げた典型的な事例と言えるだろう。
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