中國(guó)新聞社 2022年5月24日(火) 12時(shí)50分
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中國(guó)の服飾文化と西洋のファッションは遠(yuǎn)い昔から現(xiàn)在まで続く意外なほど複雑な交流史があった。寫真は四川成都博物館で開催されたシルクロードの特別展。
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古代中國(guó)の服飾文化とその技術(shù)は、西洋の水準(zhǔn)をはるかに上回っていた。西洋では18世紀(jì)になっても「中國(guó)風(fēng)」へのあこがれが続いた。その後の西洋では「中國(guó)風(fēng)」の人気が衰退したり、改めて注目されたりと、狀況は二転三転した。そして現(xiàn)在では、中國(guó)が主體性を持ってファッションを世界に向け発信するようになったという。服飾史などに造詣が深い清華大學(xué)美術(shù)學(xué)院の賈璽増教授はこのほど、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の求めに応じて、中國(guó)の服飾文化と西洋の関係の歴史を解説した。以下は賈教授言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
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■古代中國(guó)から西洋に伝わった服飾関連のハイテクは「絹」だけでなかった
中國(guó)の服飾文化の西洋への影響は、絹を抜きして語(yǔ)れない。桑を栽培し蠶を飼育するところから始める絹づくりは、中華民族の偉大な発明だ。古代ギリシャ人も、はるか東に絹を生産する國(guó)があることを知っていた。古代ギリシャ人はその國(guó)をセリカ、その民をセレスと呼んだ。セレスは絹を示す言葉でもあった。中國(guó)とは「絹の國(guó)」ということだった。
ギリシャの次に勃興したローマ人は中國(guó)を「サイリス」と呼んだ。古代ローマには綿がなく、衣服の素材は獣毛や麻だった。軽くて柔らかい中國(guó)の絹を知ったローマ人は熱狂した。絹は富貴と牽制のシンボルだった。また古代ギリシャ人やローマ人は絹を崇拝した。有名な女神像がまとっている衣服は絹の特徴をはっきりと示している。
西洋のファッションに対する中國(guó)の影響と言えば、機(jī)織り機(jī)も重要だ。中國(guó)では機(jī)織り機(jī)がすでに春秋時(shí)代(紀(jì)元前771年-同453年)には相當(dāng)に成熟していた。古い時(shí)代の西洋の機(jī)織り技術(shù)では、華やかで複雑な模様の織物を作れなかった。中國(guó)の機(jī)織り機(jī)の技術(shù)が西洋に伝わったのは6世紀(jì)から7世紀(jì)にかけてだ。中國(guó)から伝わった機(jī)織り機(jī)はその後、フランスでさらに改良されて世界に広がることになった。
■「中國(guó)風(fēng)」に大いに憧れた18世紀(jì)の西洋人
18世紀(jì)の歐州では、ロココ様式やアールデコといった蕓術(shù)や工蕓の動(dòng)きが発生した。この動(dòng)きは中國(guó)へのあこがれを反映したものでもあった。この動(dòng)きは歐州の庭園、家具、磁器、織物などの生活用品に広く広がった。歐州人は中國(guó)の文化や中國(guó)の情景を想像し、直接または間接的に模倣して、一つのスタイルを作った。
なぜ中國(guó)を「想像」したのか。その原因は歐州と中國(guó)が隔絶した位置関係にあり、風(fēng)習(xí)の違いも大きかったからだ。だから、歐州で出現(xiàn)した「中國(guó)風(fēng)」は往々にして伝聞や想像に頼るものだった。より正確に言えば、當(dāng)時(shí)の歐州の「中國(guó)風(fēng)」は真の「中國(guó)風(fēng)」でも西洋の伝統(tǒng)に基づくものでもなかった。さまざまな要素が混ぜ合った、東西文化の衝突によって発生した文化だった。
しかし當(dāng)時(shí)の西洋人が中國(guó)を崇拝したことは事実だ。最もモダンなフランス人は中國(guó)の生活様式を模倣することを誇りにした。その結(jié)果、歐州では中國(guó)製品の需要が急増した。1730年代から40年代にかけての歐州では、中國(guó)から大量の絹布が輸入されてていた。歐州の業(yè)者は竜や鳳凰、花といった中國(guó)伝統(tǒng)の図案で布を染め、「中國(guó)製」と表示して売っていた。
18世紀(jì)末に発生した蕓術(shù)運(yùn)動(dòng)は、過剰な裝飾性を排除した。また、実際に中國(guó)を訪れる歐州人が増えるにつて、現(xiàn)実の中國(guó)は想像により理想化された中國(guó)とは違うことが知られるようになった。こうして「中國(guó)風(fēng)」を尊ぶ雰囲気は冷めていった。
■現(xiàn)実の中國(guó)文化との出會(huì)い、そして「中國(guó)発のファッション」の確立
19世紀(jì)末から20世紀(jì)初頭には、ビジネスや観光を目的に中國(guó)を訪れる歐米人が増えた。また、8カ國(guó)連合軍の略?shī)Zなどにより、大量の蕓術(shù)品や服飾が中國(guó)から歐州に流入した。英國(guó)のロンドンでは1935年に、第1回中國(guó)蕓術(shù)品國(guó)際展覧會(huì)が開催された。これらにより、歐州の蕓術(shù)家やデザイナーは中國(guó)の蕓術(shù)に直接觸れることになった。中國(guó)蕓術(shù)に対する認(rèn)識(shí)と研究が新たな段階に入ったわけだ。
カペル?シャネルやクリスチャン?ディオールなど有名ファッションデザイナーがデザインや生地、加工法などで中國(guó)の方法を?qū)毪筏?。例えばフランスのシャネル?930年に中國(guó)の皇族の衣裝のデザインを女性用ジャケットに取り入れた。その他にも、明代の稲作農(nóng)民の衣裝が當(dāng)時(shí)のファッションに反映された事例もある。
中國(guó)人女性のファッションを代表する、いわゆるチャイナドレスは清朝末期から中華民國(guó)期の初期にかけて中國(guó)の沿海都市で発生した。原型は清朝の支配民族だった満族女性の衣裝だ。上衣が長(zhǎng)く橫にスリットが入っていた。本來ならばズボンも穿いていたのだが、上衣を洋服のスカートのように扱うようになった。
初期のチャイナドレスは、いわゆるロングドレスで、エリザベス?テーラーやグレース?ケリーのようなハリウッド女優(yōu)も著用した。裁斷法はさらに洋風(fēng)になり、袖やスカートは短くなって女優(yōu)のスタイルを際立たせた。
フランスの巨匠ファッションデザイナーのイブ?サンローランは中國(guó)文學(xué)や映畫、蕓術(shù)品にインスピレーションを得て1977年に中國(guó)風(fēng)のコレクションを発表した?,F(xiàn)代の中國(guó)風(fēng)ファッションの幕開けだった。
中國(guó)側(cè)の動(dòng)きとしては、2000年以降の中國(guó)の経済高度成長(zhǎng)が大きく関係している。中國(guó)では漢服と言われる古い漢族の衣裝の系譜を踏襲するファッションが大きな人気を得た。すなわち「西洋の文脈で形成された中國(guó)風(fēng)ファッション」の領(lǐng)域から脫卻し、中國(guó)人の視線で作られたファッションだ。そこには中國(guó)伝統(tǒng)の美學(xué)や思想なども盛り込まれている。
裕福になった中國(guó)は同時(shí)に、高級(jí)品の売り上げも期待できる巨大市場(chǎng)でもある。世界への影響力も格段に大きくなった。中國(guó)のファッションは今や、中國(guó)が主體性を持ち世界に発信する文化になった。(構(gòu)成 / 如月隼人)
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