歴代帝王廟になぜ過去の王朝の皇帝も祭ったのか―専門家が「中華観の完成」を説明

中國新聞社    2022年6月4日(土) 23時0分

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北京市內(nèi)にある歴代帝王廟(寫真)は極めてユニークな存在だ。最初に設(shè)立したのは明朝を開いた朱元璋(太祖)だったが、敵だったはずの元のフビライ帝も祭っていたという。

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北京市內(nèi)にある歴代帝王廟は明代(1368-1644年)に造られ、次の清朝が1912年に辛亥革命で倒されるまで、歴代王朝の帝王を祭る施設(shè)として機(jī)能した。易姓革命が繰り返し発生した中國で、過去の王朝は否定されるべき存在だったはずだ。歴代帝王廟の運(yùn)営にはどのような意図が込められていたのか。考古學(xué)の専門家で北京市內(nèi)の文化財保護(hù)などの仕事にも長く従事した許偉氏はこのほど、中國メディアの中國新聞社の取材に応じて、歴代帝王廟が歩んだ歴史を解説した。以下は許氏の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

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■明太祖は前代の元?フビライ帝の功績を稱えた

歴代帝王廟を最初に造ったのは明朝を樹立した朱元璋(明太祖)だった。明朝の當(dāng)初の首都は現(xiàn)在の南京にあった。朱元璋は新王朝を創(chuàng)設(shè)する事業(yè)は容易ではないと痛感し、南京の地に三皇五帝と天下を統(tǒng)一した開國の帝王の計16人を祭る歴代帝王廟を造った。

重要だったのは、朱元璋が祭祀の対象に元朝のフビライも含めたことだ。明は漢族の王朝であり、そもそもモンゴル民族を駆逐して「中華」を回復(fù)することを目標(biāo)にしていた。しかし朱元璋はフビライが元世祖として中國を繁栄させた功績を評価して、中華の正統(tǒng)帝王と認(rèn)めた。

一方で、秦の始皇帝や晉の武帝は「功績が劣る」として、歴代帝王廟に祭られなかった。

明の第3代皇帝だった永楽帝(在位:1402-1424年)が北京に遷都すると、過去の帝王を祭ることはやや下火になったが、第12代の嘉靖帝(在位:1521-1567年)は禮法を改めて整えた。

明代になるとモンゴル勢力は分裂傾向を強(qiáng)めていったが、それでも中國の北方にあって強(qiáng)大な勢力を維持した。明朝はモンゴルの主力グループを韃靼(タタール)と呼んだ。明朝はこのタタールとの戦いを繰り返した。明朝宮廷內(nèi)では歴代帝王廟でフビライを祭ることに反対する意見が強(qiáng)まった。嘉靖帝はとうとう、フビライを祭ることをやめた。

これは大失敗だったと思う。歴史を見れば、中華世界とはさまざまな民族が入り混じって構(gòu)築されてきたことが分かる。歴代帝王廟から非漢族の帝王を排除すれば、民族対立の構(gòu)図が強(qiáng)調(diào)されることになるだけだ。

■清朝時代に歴代帝王廟の意義が最終確定

清朝の開祖はヌルハチ(在位1616-1626年)とされる。ただし、ヌルハチが統(tǒng)治した時代には、まだ清の國號は用いておらず、支配地域は現(xiàn)在の中國東北地方一帯に限られていた。明朝が滅亡して清が都を北京に移し、中國の統(tǒng)一を本格的に始めたのは、順治帝(在位:1643-1661年)の時代だった。

順治帝は6歳で即位したので、當(dāng)初は叔父のドルゴンが摂政を務(wù)めた。ドルゴンは政治において歴代帝王廟が果たす役割りを理解していた。歴代帝王廟では満州族の帝王を祭り、明太祖の朱元璋も祭った。その上で、明朝の命運(yùn)はすでに盡き、清朝が統(tǒng)治の統(tǒng)治が始まったことを宣言した。つなり清朝の正統(tǒng)性を打ち建てたわけだ。

そして歴代帝王廟で祭禮を行う過去の帝王として、元世祖のフビライを復(fù)活させ、さらに遼太祖の耶律阿保機(jī)(やりつ?あぼぎ)、金太祖の完顔阿骨打(わんやん?あくだ)、金世祖の完顔雍(わんやん?よう)も、祭禮の対象にした。順治帝は成長して親政を行うようになると、祭禮の対象として遼や金、元の皇帝をさらに追加した。

順治帝の後を継いだ康熙帝(在位:1661-1722年)は極めて優(yōu)秀な皇帝だった??滴醯郅蠚s代帝王廟で過去の王朝の帝王を祭ることについて「前代の帝王はすでに末裔なし。後の世に天下の君主たる継承者は、まさに祭禮をもって崇(あが)めるべし」と宣言した。

また、歴代帝王廟で祭禮の対象になった帝王は、それまで「開國の祖」だったが、康熙帝は「無道だった者、反逆され殺された者、亡國の帝王」以外は祭ることにした。

このことは、天下を勝ち取ったことだけでなく、天下をしっかりと治めたことも評価すると同時に、問題が大きかった帝王は祭らないという基準(zhǔn)を定めたことでもあった。

康熙帝は明朝の最後の皇帝だった崇禎帝(在位:1627-1644年)については「國を立て直そうと懸命だったが、ついに國を救えなかった」と評し、明朝滅亡は崇禎帝の責(zé)任ではないとして、歴代帝王廟での祭禮の対象に加えた。一方で、亡國の禍根をつくったのは萬暦帝、泰昌帝、天啓帝だったとして、この3人は祭禮の対象にしなかった。

■歴代帝王廟は多様?shù)膜慕y(tǒng)一的であり続けた中華世界を示す

清朝第6代の乾隆帝(在位:1735-1796年)は、祭禮の対象として中央王朝では以外では遼と金の帝王しか含まれていなかったことを、「欠落あり」と考えた。特に鮮卑族に屬した北魏の帝王については「戦亂を終息させ、黃河以北に君臨し、政治に勵み、學(xué)問と農(nóng)業(yè)を盛んした。確かに英主であった」と重視しして祭禮の対象にした。乾隆帝はそれ以外の地方政権の帝王も対象にしたので、歴代帝王廟では188人もの帝王が祭られるようになった。

乾隆帝はまた、明太祖の朱元璋が元世祖のフビライを祭ったことを稱賛し、嘉靖帝がフビライを祭ることをやめたことを非難している。

乾隆帝は中華の統(tǒng)治が連綿と続いてきたことを強(qiáng)く感じた。「絶えざること糸のごとし」とも表現(xiàn)している。中華世界では歴代の帝王を象徴とする主権と統(tǒng)治が一貫して続いてきたのであり、中華世界は多元的でありかつ統(tǒng)一的であり続けた。歴代帝王廟は世界の古い文明國の中でも、極めてユニークな存在になったと言える。(構(gòu)成 / 如月隼人

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