大発見続々の三星堆遺跡は極めて巨大、今も大部分は調(diào)査手つかず―狀況熟知の専門家が解説

中國新聞社    2022年9月5日(月) 20時(shí)30分

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四川省の三星堆遺跡は古代中國の文明文化を知る上で極めて重要だ。専門家は努力を続けているが規(guī)模が大きすぎて、大部分は現(xiàn)在も手つかずという。寫真は三星堆博物館の展示品。

かつての歴史の授業(yè)では、「中國の黃河文明は世界の古代四大文明の一つ」と教わった。しかし少なくとも中國については狀況がずいぶん変化した。中國では黃河文明と同時(shí)期に、他の多くの場所に文明が存在したと判明したからだ。代表の一つが、四川省の広漢市內(nèi)にある三星堆遺跡を中心とする文明だ。四川省文物考古研究院三星堆遺跡作業(yè)ステーション長などを務(wù)める雷雨氏はこのほど中國メディアの中國新聞社の取材に応じて、三星堆にまつわるさまざまな狀況を解説した。以下は雷氏の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

■三星堆文化は初期中華文明という「大パズル」に欠かせない“ピース”

三星堆遺跡の分布範(fàn)囲は約12平方キロで、これまで発見された中で長江上流および西南地區(qū)で最大の先秦時(shí)代(紀(jì)元前221年-同206年の秦朝以前の)遺跡だ。この地域の文明としては継続期間が最も長く、新石器時(shí)代末期から春秋戦國時(shí)代末期まで続いた。

三星堆文化を代表とする古代蜀文明は中華文明の起源と発展時(shí)期に最も獨(dú)特な地域文明であり、比較的獨(dú)立した発展の過程を持っている。すなわち地域の特色が強(qiáng)い。

しかし三星堆文化は孤立していたわけでない。黃河流域からは青銅鋳造技術(shù)、禮器制度、紋様、玉を使う伝統(tǒng)を広く吸収した。長江下流の良渚文化からもさまざまな玉器が導(dǎo)入された。長江中流の石家河文化からは灰白陶器、壁を築く技術(shù)や稲作技術(shù)など、さまざまな地域から様々な概念や制度、技術(shù)、具體的な器物がもたらされた。

三星堆文化は逆に、周辺地域の文化にもかなりの影響を與えた。その影響範(fàn)囲は、東は長江三峽、北は関中地區(qū)に達(dá)し、南はベトナム北部に至る。

つまり、初期の中華文明とは全體として內(nèi)容が豊富なパズルであり、三星堆文化はとりわけユニークな、かつ初期中華文明に欠かせないピースだったと考えねばならない。

三星堆遺跡からの出土品は、たとえ非常に奇抜に見えても、例えば青銅製の正座人の各種の裝飾物や大量に出現(xiàn)する竜や鳳凰(ほうおう)の姿、さらには殷文化に由來する青銅器の文様など、どれも中華文明の典型的な要素を反映している。三星堆文化が中華文明の多元的かつ一體的、さらに開放的で包容的なありかたの実例であることは間違いない。

■20世紀(jì)の最も偉大な考古學(xué)の発展、規(guī)模大きすぎて大部分は未調(diào)査

三星堆遺跡の発掘に初めて著手したのは、四川大學(xué)博物館の前身の華西協(xié)和大學(xué)博物館だった。1934年のことだ。その後は社會情勢の影響で発掘作業(yè)は中斷されていたが、50年代から70年代にかけて、四川省のさまざまな考古機(jī)関が小規(guī)模な考古學(xué)調(diào)査を行った。

80年代から90年代にかけては、四川省文物考古研究院などの機(jī)関が三星堆遺跡とその周辺で全面的かつ系統(tǒng)的な考古學(xué)調(diào)査を行い、遺跡と城跡の分布範(fàn)囲や年代範(fàn)囲、文化の中身をほぼ把握し、「三星堆遺跡」などの正式名稱が定められた。

三星堆遺跡は國家級重點(diǎn)文物保護(hù)単位に昇格し、「20世紀(jì)で最も偉大な考古學(xué)的発見の一つ」と呼ばれるなど、その重要性が強(qiáng)く認(rèn)識されるようになった。

しかし対象が膨大なため、三星堆遺跡の発掘面積は総面積の1000分の2にも満たない。これほど考古學(xué)調(diào)査の歴史が長い遺跡は中國では珍しい。

現(xiàn)在進(jìn)行中の「祭祀坑」の発掘では、新たに発掘した「祭祀坑」から、かつて発掘した「祭祀坑」での出土品と関連がある器物が見つかったなどが注目される。

また、各「祭祀坑」の年代については過去30年間にわたり議論があったが、炭素14の年代測定により5號、6號の「祭祀坑」の年代はやや遅いと分かり、また3號、4號、7號、8號の「祭祀坑」の埋蔵年代は殷代末期の今から約3200年から3000年前であることが分かった。これにより埋蔵年代に関する論爭は決著を見た。

また、高さ2.62mの青銅の立像は3重の服を著て非常に華やかだ。このことは、古蜀文化では絹織物が用いられていたことを物語っている。

■知識が増えたことで、新たな謎が次々に出現(xiàn)

一方で、知識が増えたことに伴い、新たな謎も発生した。例えば、これまで使われていた「祭祀坑」という呼稱が妥當(dāng)であるかどうかも疑問になった?!讣漓肟印工趣?、祭祀のために掘った穴ということだ。「祭祀坑」と呼んできた穴の中に、祭祀用の器物があり、器物を穴に入れる時(shí)に祭祀行為があったことは明らかだが、祭祀のために穴を掘ったのかどうかは問題になってきた。

また、「祭祀坑」の中の器物は、神殿にあったものを埋蔵したものだ。この行為は、當(dāng)時(shí)発生した大きな事件を反映しているのか。また、當(dāng)時(shí)のどのような禮制や思想が反映されているのだろうか。7號坑は、作られてから數(shù)年ないし100年後に破壊され、同じ場所に再び穴を掘って6號坑を作っている。この件の経緯も不明だ。

もう一つの問題は、三星堆遺跡で出土する象牙の由來だ。かつては地元産とする考えが主流だったが、それにしては點(diǎn)數(shù)が多すぎることが明白になった?,F(xiàn)在は、科學(xué)研究機(jī)関が三星堆から出土した象牙のストロンチウム同位體分析を行っている。現(xiàn)在までの研究狀況から言えば、一部の象牙が貿(mào)易取引を通じて輸入されたものであることが確認(rèn)できた。これは古蜀人が流動性の高い貿(mào)易ルートを確保していたことを意味する。ただし具體的な貿(mào)易方式やルートについては、さらに研究する必要がある。

そして「究極の問題」がある。三星堆文明に、文字が存在したのかどうかだ??脊艑W(xué)関係者は、新たに発見された亀甲形の格子狀青銅器の中央にある大きな塊の玉器から、わずかでもよいから文字の可能性がある記號が確認(rèn)されることを期待している。文字があったとしても、木や絹に記されていたのでは、保存される可能性は低いからだ。私個人としては、三星堆のような発達(dá)した文明には文字があったと信じたい。

三星堆遺跡では、未発掘地域が大量に殘っている。大量の発掘作業(yè)を継続し、基礎(chǔ)材料を蓄積しせねばならない。発掘作業(yè)は今後の長期にわたって続く。都市配置の観點(diǎn)から見ると、古蜀の都である三星堆では、放流階級の墓葬エリアや青銅工房エリアなどがまだ見つかっていない。これらはいずれも今後の取り組みの重點(diǎn)方向だ。

三星堆遺跡からは大量の青銅器が出土している。相當(dāng)部分が地元で鋳造されたに違いないと信じるに足る理由がある。63年には四川大學(xué)が月亮灣の臺地、燕家の庭付近で小規(guī)模な試掘を行い、精錬スラグや銅鉱などを発見したという。さまざまな理由で実物の資料は殘されていないが、調(diào)査に參加した専門家が殘した文字記録は、ブロンズ工房の位置を探す上での一定の手がかりだ。

私たちは祭祀?yún)^(qū)でさらに広範(fàn)囲の掘削と探査を展開し、區(qū)域全體の空間配置を明確にたい?!笇m殿區(qū)」の考古學(xué)作業(yè)については、これから2號、3號建築を?qū)澫螭碎v連作業(yè)が行われる。また、三星堆が神権國家である以上、祭祀體系、宗教観念などに関する研究も引き続き強(qiáng)化していきたい。(構(gòu)成 / 如月隼人

※記事中の中國をはじめとする海外メディアの報(bào)道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現(xiàn)地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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