工藤 和直 2018年10月21日(日) 14時(shí)40分
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日本と中國(guó)の外交関係を顧みると、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余國(guó)を?yàn)椁埂工渭o(jì)元前1世紀(jì)に書(shū)かれた漢書(shū)地理志が日本についての最古の公式文書(shū)である。寫(xiě)真は筆者提供。
日本と中國(guó)の外交関係を顧みると、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余國(guó)を?yàn)椁埂工渭o(jì)元前1世紀(jì)に書(shū)かれた漢書(shū)地理志が日本についての最古の公式文書(shū)である。その後、中國(guó)側(cè)正式歴史書(shū)の1つに魏志倭人伝があるが、日本と中國(guó)の外交は朝鮮半島を介してのみの歴史である。
4世紀(jì)になると朝鮮半島は高句麗の臺(tái)頭で、中國(guó)との外交は東シナ海を越えて南朝(六朝時(shí)代)との交易が盛んになった。宋書(shū)倭國(guó)伝?南斉書(shū)?梁書(shū)に見(jiàn)るように南朝では江蘇地域との外交が主となった。従って日本の文化は江南との共通性が多く見(jiàn)られるのは道理である。特に仏教文化は梁から來(lái)たと思われる。その梁書(shū)倭人伝の中に「倭者、自謂太白之後…」とあるように、倭人は自ら周王朝の後胤で江南に下った「太白(泰伯)」の子孫とわざわざ言う事からして、江南地方とは古くから交流があったと推論される。
邪馬臺(tái)國(guó)の場(chǎng)所は、三國(guó)のひとつ「呉」に正式歴史書(shū)があれば重要參考になるはずだが、殘念ながら現(xiàn)存してない。3世紀(jì)末(西暦290年頃)、西晉の陳壽が編纂したのが「三國(guó)志」であり、魏國(guó)に関する「魏書(shū)」30巻、蜀國(guó)に関する「蜀書(shū)」20巻、呉國(guó)に関する「呉書(shū)」15巻からなる。我々日本人には「魏志倭人伝」が非常に有名であるが、正式には「三國(guó)志魏書(shū)東夷伝倭人條」というのが正式名稱(chēng)である。この三國(guó)志は魏が正統(tǒng)であることを記載したもので、呉書(shū)といっても多少なりとも魏が主體になった書(shū)き方である。この呉書(shū)に記載される倭に関連の項(xiàng)目と、魏志倭人伝との項(xiàng)目を両方考慮することで、邪馬臺(tái)國(guó)の位置を同定できる。
江戸時(shí)代以降、邪馬臺(tái)國(guó)の場(chǎng)所について九州説と畿內(nèi)説が激しく論爭(zhēng)の対象になっているのは、魏志倭人伝のみの解釈によるからで、他の正式史書(shū)と比較検証せず、結(jié)論が出せない狀況になっている。例えば、舊唐書(shū)(くとうじょ、10世紀(jì)中に書(shū)かれた中國(guó)二十四史の1つ)によると「倭國(guó):その後の邪馬臺(tái)國(guó)」と「日本:大和朝廷」の2つの王朝の存在を明記していることから、九州のどこかに「倭國(guó):邪馬臺(tái)國(guó)」があった。
最近、天理市にある黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡をスプリング8で蛍光X線(xiàn)分析した結(jié)果、中國(guó)製(場(chǎng)所は不明)の鏡と判明。纏向遺跡から出土した大量の桃の種(古代は信仰と呪術(shù)の対象)が放射性炭素年代測(cè)定から2~3世紀(jì)の物と判明したことから、近畿(奈良周辺)に大和朝廷の初期王朝があったことが次々証明されている。ただ、魏志倭人伝に卑彌呼の棺は「棺有れど槨なし」と記載されているように、そのまま土中に埋められたので、箸墓古墳?黒塚古墳(いずれも古墳時(shí)代初期)とも石室を持つ構(gòu)造であるがため、卑彌呼の塚ではない。
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