工藤 和直 2018年10月21日(日) 14時40分
拡大
日本と中國の外交関係を顧みると、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余國を?yàn)椁埂工渭o(jì)元前1世紀(jì)に書かれた漢書地理志が日本についての最古の公式文書である。寫真は筆者提供。
呉書によると、呉王「孫権」は西暦230年に衛(wèi)溫と諸葛直の2名の將軍を會稽(現(xiàn)在の紹興)の東方海上にある「夷州」と「亶國」に派遣し、3000名の奴隷を連れて帰っている。夷州とは臺灣で、亶國とは倭國の一國で、九州南端にある種子島に辿り著いたといわれる。従って、亶國は九州南部の國であろうと推測がつく。両將軍は“倭國征伐”に行ったとも言われるが、真実は武力によって同盟関係を結(jié)ぼうとした可能性もある。しかも、臺灣から島伝いに行っていることから、畿內(nèi)ではない(熊野の南方に島はない)。
當(dāng)時、魏?呉?蜀の三國は覇権をめぐって激しい戦爭を繰り返し、呉と蜀は同盟関係であり、西暦237年に北京北部の朝鮮半島北部遼東に「燕國」が建國され魏國と対立したが、翌238年には燕國は魏によって滅ぼされ、その北にある高句麗(ツングース族:満洲族)と直接國境を介することになった。魏國は四面楚歌の狀態(tài)だが、西暦239年に朝鮮半島南にある「邪馬臺國」が洛陽に朝貢に來たのだ。當(dāng)然の如く「親魏倭王」の金印と「銅鏡」百枚を渡すに値する優(yōu)遇をしたのは理にかなう。
呉國は西に拡大の余地がなく、南の越南(ベトナム)は蜀の諸葛孔明が攻め、北側(cè)の魏しか拡大の余地はない。呉國は當(dāng)然、魏の背後にある燕國や高句麗と同盟を結(jié)び、魏國に従った邪馬臺國と不和で戦爭狀態(tài)である魏志倭人伝記載の邪馬臺國南方の「狗奴國」とも縁を結(jié)ぶのは當(dāng)然の事である。この狗奴國が呉書にある亶國であろうと推測がつく。この狗奴國は男子を王と為し、その官に狗古智卑狗(くこちひく)が居た。“くこち”こそが、その後の熊本の名族「菊池」氏になったとも言われる。
中國古代文字「邪馬」を中古音では、”シィャマ”とか”イァマ”と発音する。魏志倭人伝に邪馬臺國の北にある同盟國として對蘇(鳥棲)?好古都(博多)?支惟(佐賀の基肄)があり、南に熊本菊池があること、しかも當(dāng)時としては最大の7萬戸(35萬人)の大都市なら、福岡県南部筑後川?矢部(やべ)川流域の山門(やまと)や八女(やめ)周辺を含む広大な地域を邪馬臺國と稱したと推測する。なぜなら、奈良の平城京(16平方キロメートル)ですら10~20萬人といわれている。
寶塚の自宅近くに4世紀(jì)古墳前期に作られた「安倉高塚古墳」がある(安倉南2丁目)。そこから1枚の銅鏡が見つかった(寫真1)。鏡の銘文に「赤烏七年(西暦244年)」の記載がある。赤烏(せきう)とは三國時代「呉國」で用いられた年號であり、孫権の時代に重なる。呉國がこの畿內(nèi)と直接関係があったと言うことでなく、當(dāng)時九州にあった倭國と関係を持ち、製造から百年後に畿內(nèi)の豪族に持ち込まれたものだ。1枚の銅鏡、12年間駐在した江南の地からどういう因縁でご近所に來たのか、古代ロマンは止まらない。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
この記事のコメントを見る
Record China
2018/10/17
2018/10/16
2018/10/15
ピックアップ
we`re
RecordChina
お問い合わせ
Record China?記事へのご意見?お問い合わせはこちら
業(yè)務(wù)提攜
Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問い合わせはこちら
この記事のコメントを見る