Record China 2016年12月20日(火) 11時52分
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華僑団體の優(yōu)秀なリーダーは、往々にして事業(yè)を成功させるだけの熱意と求心力と行動力を持つ人物である。勿論、今日の日本における四大華僑団體の一つである日本中華総商會の厳浩會長もそうした人物の中の筆頭である。
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【その他の寫真】
<成長>多様な文化の混血児
今の江蘇省張家港市は、中國でも著名なスター級の都市であり、連続して「全國百強県?市」のトップにランキングされている。しかし1960年代には長江の流砂の堆積によってできた文字通り田舎の「沙洲県」であった。張家港市は江南の蘇州地區(qū)にあるが、伝統(tǒng)的な江南地方ではない。蘇州の南北からの移民が集まり、融合した土地だ。北は長江、東は海に臨み、良い漁港となっている。ここには文化人だけでなく、全國を駆け回る商人、また漁民もおり、文蕓文化、商業(yè)文化と河川?海洋文化が織りなす獨特の「多元的地方文化」を形成していた。
1962年11月、厳浩はこの地に生を受けた。厳浩は、江南文化は京都の文化と似ており、奧が深くて歴史と文化が蓄積されているが、京都の文化は排他的、保守的で、江南の移民文化のような寛容さと開放性に欠けていると見られる。このように日中両國の文化のなかにある微妙な相違點を感じつつ、華人たちは日本社會に溶け込んでいくのである。
張家港市に生まれ育った厳浩は、自分を「文化の混血児」だと言う。文革後に大學入試が復活した2年目、彼は家郷に近い上海や南京の大學を選ばず、優(yōu)秀な成績で天津大學電子工程系に合格し、上海から列車に乗って天津に行った。萬里の夢に向かう自己実現(xiàn)の第一歩を踏み出したのである。1979年當時、中國の大學生は全國各地から集まっていた。厳浩は寮の8人部屋に入ったが、同室には17、8歳から30歳過ぎまでいろいろな年齢層の學生がいた。しかし、同級生にとってなまりの強い標準語を話す厳浩には、優(yōu)雅なインテリ江南人のイメージはなかった。彼は談論を好む率直な人柄であった。長春にある東北師範大學で留學準備のため日本語を?qū)Wんでいた時、その率直さのせいで東北人と間違えられたほどであった。
故郷を離れてから、厳浩は日本全國を渡り歩き、豪快に飲み食いし、たくさんの友人と付きあい、どこに行っても現(xiàn)地の仲間と馴染んでしまう。大きな會社の代表、上場企業(yè)のトップらしくないという人もいる。しかし、これは彼が多様な文化の影響を受け、文人ビジネスマンの知恵と義理と人情を身につけていることを知らないからであろう。そういったものは彼の行動に自然と現(xiàn)れており、何も飾ろうとはしていない。厳浩は細かいことは気にせず、率直に人と付き合う。彼のような、自身の真実を追究し平然としている様子は、北方中國では「不裝蒜」(ニンニクを裝わない=気取らない)と言う。
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